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日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教


平和の主日(ヨハネ15:912)

 

「平和あれ」

 

森岡正博さんは、こう尋ねられたそうです。「戦争はイヤです。誰かを守るためには、誰かを殺さないといけないのですか」と。そこで森岡さんは、「そもそも『誰かを守るために、誰かを殺す』とは、いったいどういうことなのか」と問い、次のように答えています。

例えば、知らない人が包丁を振り回しながら、自分の家に押し入ってきたとします。その時、自分と家族の命を守るために、私のほうも、刃物でその人に応戦するような場合を、考えてみましょう。刑法では、このような行為は正当防衛とされ、罪にはなりません。

戦争の状況についても、同じことが言えます。ある国の軍隊が一方的に日本に攻めてきて、市民に暴力をふるったり、殺し始めたとしましょう。その時、自分や家族の命を守るために、仲間と武器を取って戦うことは、正当防衛となるはずです。

しかし現代日本において、一市民が軍隊相手に戦う可能性は、それほど高くはありません。一市民が武器を取って戦うことがあるとすれば、それは日本に徴兵制が敷かれる時でしょう(以上の記述は、森岡正博著『人生相談を哲学する』生きのびるブックス154155頁に負っている)

以上のことを踏まえて、森岡さんは、質問者に対して、こう答えるのです。「たとえ正当防衛であれ、誰かを守るために誰かを殺すのはイヤだというあなたの感受性を、私は支持します。あなたが殺すのを拒むのは、あなたが弱い人間だからではなく、あなたが人間のいのちを真に尊重しているからです。もし仮に徴兵制が敷かれたときは、自分の良心に従って、『良心的兵役拒否』を貫いてください。罰を受けるかもしれませんが、人を殺すよりましです。……殺すことに加担しなかったという選択こそ、あなたが後世に残すことができる本物の希望なのですから」(同書155)

確かに、「戦争は人殺しだからイヤだ」という感情に基づく、このような平和主義は重要です。しかし感情的な反応だけでは、「侵略戦争はよくないが、自衛戦争はやむをえない」という考えに、太刀打ちできないのではないでしょうか。

哲学者のI・カントは、『永遠の平和のために』(丘沢静也訳、講談社)の中で、国家が軍隊を常備し、戦争に備えることを批判して、次のように述べています。

「『常備軍は、いずれ全廃するべきである』というのも、常備軍はいつでも出撃する準備をととのえているので、他国をたえず戦争の脅威にさらしているからだ。……それだけではない。殺したり殺されたりするためにお金で雇われるということは、人間を他者の(つまり国の)手でたんなる機械とか道具として使うという意味も含んでいるように思えるが、そのような使い方は、人格をそなえた人間であるという権利と相容れないだろう」(同書1516)

常備軍は、「備えあれば憂いなし」という理由で、設けられています。しかし実際には、カントの言うように、軍隊の存在そのものが、平和を脅かしているのではないでしょうか。しかも、兵士になるということは、「殺したり殺されたりするためにお金で雇われる」ということです。

誰かが生き残るために、別の誰かを、殺されてもよい存在として、道具のように使うことを、正当と認めるのかどうか。これが、自衛のためとはいえ、常備軍をもつべきかどうかの判断の分かれるところなのです(高橋哲哉著『反・哲学入門』白澤社164165頁参照)

もちろんカントも、市民が武器をもって自らを守ることは、否定していません。彼はこう述べています。「国民が自分の意思で期間限定で武器をもって訓練して、自分と祖国を外からの攻撃から守るというのは、〔常備軍とは〕まったく別の話である」(前掲書16)

残念ながら私たちは、自分の価値観に縛られています。私たちは、同じ価値観をもつ者には友愛の情を抱けても、価値観の異なる者に対しては、敵対的となり、批判したり、排除したりするのではないでしょうか。

それに対して神は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方です(マタイ545)。このような神の無限の愛を経験する者は、その愛に満たされて、彼自身も敵を愛する者とされるのです。だからキリストは、こう命じられたのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1512)と。

またキリストは、ルカ62729において、より具体的に教えて、こう言われました。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。……あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」。そしてキリストは、教えた通りに、自分を殺す者たちを、天の父に執り成しながら、彼らによって殺されたのです。

このようなキリストの在り方を説明して、岩田靖夫さんは、次のように述べています。「自分を守るために、他者を殺さない。復讐しない。不正を加えられても、不正を返さない。どのようなときでも、どのような他者にも、善意を贈りつづける。それは、他者に対して限りない畏敬の念をもつ、ということである。他者のうちに、神の似姿を見る、ということである。そこを目指して努力するのでなければ、どのような工夫をこらしても、それは、戦争の可能性の危うい隠蔽に過ぎない」(岩田靖夫著『いま哲学とはなにか』岩波書店202)

 キリスト教における神は、「汝殺すなかれ」と命じておられます。なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。それは、人を殺すことが、神の無差別の愛にもとる行為であるからです。私たちも、キリストにならって、他者に対して限りない畏敬の念をもち、どのようなときでも、どのような他者にも、善意を贈りつづけたい、と思います。