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日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教

※今月は2つの説教を掲載しています。

待降節第3主日(ルカ2638)

「主が共に

沼崎 勇牧師

長崎バプテスト教会の友納靖史牧師は、「こんなおれでも愛してくれるかい 長崎だからこそ発信できるメッセージがある(『百万人の福音』2005年3月号)という記事を書いています。

ある日、教会前の川原で、家出少年たちが騒いでいました。友納牧師は、その中に、教会学校の生徒だった少女がいるのを見て、驚きました。友納牧師は、「野宿する」と言う彼らに、「何か必要があったら声をかけてくれよな」と、優しく言いました。そして、そのうちの数名が教会に泊まったのです。その後、自分の家に居場所がない彼らは、教会に出入りするようになりました。

ある時、シンナーを吸っているところを見つかった少年は、友納牧師にこう叫んだそうです。「なぜ自分は生れてきたのか。どうしてこんなに苦しんでまで生きなければならないのか」と。その彼らが、教会の子どもたちが、「きみは愛されるため生まれた」を歌っているのを聞いて、涙を流したのです(大塚野百合『賛美歌・唱歌とゴスペル』創元社117119頁)

この歌は、韓国生まれのゴスペルです。作詞・作曲は、イ・ミンソプさんです。作詞者公認の日本語訳を紹介します。

「きみは愛されるため生まれた / きみの生涯は愛で満ちている / きみは愛されるため生まれた / きみの生涯は愛で満ちている // 永遠の神の愛は われらの出会いの中で実を結ぶ / きみの存在が 私にはどれほど大きな喜びでしょう // きみは愛されるため生まれた 今もその愛受けている / きみは愛されるため生まれた 今もその愛受けている」(同書114頁)

この歌は、愛されることを切望しながら、家庭で、学校で、職場で、ほんとうの愛に出会えず、心が飢えている私たちに、神の愛を伝えているのです。

さて、ルカ1:26以下において、マリアと天使ガブリエルは、生れる子について、対話をしています。

天使は、マリアのところに来て、こう言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。マリアは、天使の言葉に戸惑います。すると天使は、彼女にこう言います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方〔神〕の子と言われる」(30-32節)。

「あなたは身ごもって男の子を産む」という言葉が、もし新婚の妻に語られるのであれば、それはまさに恵みのおとずれである、と言えるでしょう。しかしそれが、未婚の女性に向けられた言葉であれば、話はまったく違ってきます。マリアは、恥ずべき女性として、厳しく罰せられるかもしれません。だからこそ、マリアは天使に、こう答えるのです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。この答えは、マリアがまだ結婚していないのだから、妊娠というようなことがあってはならないはずだ、と抗議している言葉です(岸本羊一『スキャンダラスな人びと』新教出版社8487頁)

しかし天使は、彼女にこう言います。「聖霊があなたに降り、いと高き方〔神〕の力があなたを包む。だから、生れる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。……神にできないことは何一つない」(35-37節)。この言葉を聞いて、マリアは答えます。「わたしは主のはしため〔しもべ〕です。お言葉どおり、この身に成りますように」と。

もともと、イエス・キリストは、マリアとヨセフに望まれた子どもではなかったのです。しかし、神にできないことは何一つありません。望まれない子どもを受け入れ、心から我が子の誕生を待ち望むことができるように、神はマリアの心を愛で満たしてくださったのです。マリアは、新しい命を与えられたことを、神に感謝することができました。

イエスの母マリアを通して、神と人間との新しい関係が示されました。それは、イエス・キリストが神の子となられたように、私たち人間も神の子と呼ばれる、という関係です。

ヘンリ・ナウウェンによれば、マリアは私たちに、こう言っているのです。

「わたしといっしょにあなたの存在の中心へ深く深く下りて生きていきましょう。そこであなたは、どんなに自分が愛されているかが分かるでしょう。そこであなたは、神の愛する子、イエスの兄弟、姉妹、聖霊の神殿である自分の真の姿を見いだすでしょう」ヘンリ・ナウウェン『イエスとマリア』女子パウロ会1718頁)

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という天使ガブリエルの言葉は、マリアだけではなく、私たちに対しても語られています。私たちは、一人ではありません。主イエス・キリストが、私たちの心の中に住んでおられるのです。

ヘンリ・ナウウェンは、こう言っています。

「世にあって、わたしは一人で神を観ること、聴くこと、触れることができない。しかし、……わたしのうちに生きておられるキリストが、世におられる神を観て、聴いて、触れることがおできになる。そして、わたしのなかにあるキリストのものすべては、まったくわたし自身のものである。キリストの単純さ、聖さ、汚れなさは、まさにわたし自身のものである」(同書5556頁)

イ・ミンソプさんは、「きみは愛されるため生まれた」の「きみ」のところに、自分の名前を入れて、「○○は愛されるため生まれた。○○の生涯は愛で満ちている。○○は愛されるため生まれた。今もその愛受けている」と歌いましょう、と勧めています(大塚野百合、前掲書112頁)

キリストが神の子となられたように、私たちも、神の子どもと呼ばれる存在です。神に愛されるために、すべての人は生れたのです。

顕現節第3主日(ルカ41632)

「主の恵み

沼崎 勇牧師

フランスの思想家アランは、『幸福論』(神谷幹夫訳、岩波書店)の中で、友情について、次のように述べています。

「友情のなかにはすばらしいよろこびがある。よろこびが伝染するものであることに気づけば、そのことはすぐに理解される。ぼくがいることで友人が少しでもほんとうのよろびを得るなら、そのよろこびを見たぼくが、今度はまたよろこびを感じるのである。このようにして、お互いに与えたよろこびが自分に返ってくるのである。と同時に、よろこびという隠されていた宝が、手の届くところに現われてくる。そして二人とも、『自分のなかに幸福があったのに、今まで全然手をつけることがなかったのだ』と思うのである」257頁)

友情で結ばれた友人同士の間には、喜びが自由に行き来し、それが、今を生きる充実感となる、とアランは言うのです。そういう友情は、生身の個人と個人が向き合うとき、だれに対しても成り立つ可能性があるのではないでしょうか。

友情に結ばれた関係の中では、自分の喜びや幸福が相手の喜びや幸福となり、相手の喜びや幸福が自分の喜びや幸福となります。となると、自分が幸福になることは、相手に対する義務となります(長谷川宏著『幸福とは何か』中央公論新社221222頁参照)

アランは、次のように述べています。「幸福になろうと欲しなければ、絶対幸福になれない。これは、何にもまして明白なことだと、ぼくは思う。したがって、自分の幸福を欲しなければならない。……幸福になることはまた、他人に対する義務でもあるのだ。……人から愛されるのは幸福な人間だけである、とはいみじくも喝破したものだ。しかし、こういう報酬は正当なものであり、受けるに値するものだということが忘れられている。なぜなら、不幸や退屈さや絶望はわれわれみんなが吸っている空気のなかにあるのだから。だからわれわれは、そういう毒気にうちかった人たち、そしてすばらしい手本を示すことによって、言わばみんなの人生を浄化してくれた人たちには感謝の念とオリンピックのメダルとをささげねばならない」(アラン前掲書312頁)

非常に残念なことですが、私たちの生きている世界には、不幸や退屈や絶望があります。特に、愛する人たちの不幸、退屈、悲しみを見るのは、辛いことです。だから幸福こそ、もっとも美しい贈り物なのだ、と思います。自分の喜びや幸福は、自分だけのものではなく、相手に伝染して、相手の喜びや幸福となるのです。

さて、ルカ4:16以下において、キリストは故郷のナザレに来て、安息日にユダヤ教の会堂に入り、聖書を朗読しようとして、お立ちになりました。その時イザヤ書が渡されたので、キリストは、イザヤ61:1-2を朗読されました。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(18-19節)。

キリストは、イザヤ書を係りの者に返して、席に座られました。会堂にいた人たちの眼差しが、キリストに注がれていました。そこでキリストは、こう言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)。

イザヤ書に登場する「貧しい人」、「捕われている人」、「目の見えない人」、「圧迫されている人」とは、会堂のどこか外にいて、いつの日か解放される人たちのことではありません。今、ここで聖書の言葉を聴いている人たちのことだ、とキリストは言われるのです。私たちが今、ここで、神の言葉を聞くとき、神は、私たちの心を清め、愛の炎を燃やして、新しい命を与えてくださるのです

だれかが私たちに、「あなたを愛している」と言ったとき、この言葉は、私たちを癒す力を持っていす。反対に、だれかが私たちに、「あなたを憎んでいる」と言ったとき、この言葉は、私たちを破壊する力を持っていす。言葉は、私たちの中で何かしらの作用をするわけです。(ヘンリ・J・M・ナウエン著、景山恭子訳『燃える心で』聖公会出版3638頁参照)

アランは、次のように述べています。「ここに一束の乾いた枝があるとする。この枝は見かけは枯れたようで、土みたいだ。……しかしながら、この枝は太陽から吸収した隠れた熱を秘めている。ほんのわずかな焔でも近づけて見たまえ。たちまちパチパチと音を立てて燃える炭火となるだろう。ただ、戸を揺り動かし、囚われている者を目ざめさせる必要があったのである。……君の薪を君の穴ぐらの中で朽ちてゆくままにしてはならぬ」(アラン前掲書258259頁)

キリストは、ヨハネ15章で、「ぶどうの木」の譬えを話した後、こう言われました。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)。

私たちがいることを、キリストは心から喜んでくださいます。そのキリストの喜びを見た私たちは、また喜びを感じます。このようにして、本当の喜びが、私たちの手の届くところに現われてくるのです。

私たちの生きている世界には、不幸や退屈や絶望があります。しかしながら、私たちの心は、神から吸収した隠れた熱を秘めています。私たちが神の言葉を聴くとき、神の愛の焔が近づいて、私たちの心は、たちまちパチパチと音を立てて燃え始めるのです。