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日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教

聖霊降臨後第19主日(ルカ18:1-8)

             「祈りについて」
                             沼崎 勇牧師

 右の手と左の手を合わせる。これは合掌(祈り)の姿です。それは、両方の手の掌(たなごころ)を合わせることでもあります。「たなごころ」とは、「手の心」(た=手、な=の、ごころ=心)という意味です。ですから合掌は、心と心がぴったり合った姿でもあります。カトリック教会の司祭である宮本久雄氏は、天地が合掌(祈り)に充ちていることに驚いて、次のように述べています(以下の記述は、宮本久雄著『「関わる」ということ』教友社231‐232頁に負っている)。
 沼や城のお堀に蓮の花が咲いている姿を、思い浮かべてみましょう。沼やお堀の水は、どろどろしていて濁っています。その水の中には、蛙の死骸やゴミ屑が浮かんでいます。しかし蓮は、そんなことを気にもとめず、根を泥の中に張り、陽光のもとに微笑んでいます。根は泥から養分を吸収し、からだは天の光や露を受けています。そんなふうに蓮の花は、天地の心が合わさって開花した、合掌の姿なのです。
 この蓮の姿を、私たちのあり方に当てはめてみましょう。私たちは皆、一方で心の底に泥沼のような、どろどろした弱さ、苦しみ、痛みを秘めて生きています。しかし他方で、同時に、天上からの不思議な光、人の暖かさ、子ども時代からの命を育む眼差しを、私たちは受けています。
 そして、この弱さや、どうしようもなさも、反省の糧、謙遜のさそいとなり、天からの光の恵みと、育みの力と合わさって、今ある私たちの心を形づくってくれています。だから、私たち一人ひとりは、この精神的天地の合掌(祈り)の姿なのです、と。
 さてキリストは、ルカ18:1以下において、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えるために、「やもめと裁判官」のたとえを話されました。
 ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいました。ところが、一人のやもめが裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」(3節)と言っていました。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしませんでした。しかし、その後にこう考えました。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」(4-5節)。
 このたとえ話は、やもめの方が正しく、裁判官は、わざと義務の履行を遅らせているということを、前提にしています。おそらく裁判の相手が、裁判官に賄賂を贈って、そうさせているのでしょう。そこで、このやもめは、裁判官が、自分の訴えを有利な示談に持ち込んでくれるまで、ねばって叫び続けたのです。
 そしてキリストは、このたとえを説明して、こう言われています。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(6-8節)。
 聖書学者のA.M.ハンター氏によれば、キリストは神を、わずらわされることによって、止むを得ず承諾するというような、優しくない方である、と言われているのではありません。そうではなくて、不正な裁判官でさえ、やもめの執拗さに動かされて、行動することがあり得るとすれば、神はそれ以上に、苦しむ人の祈りに答えて、守ってくださるであろう、と言われているのです(A.M.ハンター著『イエスの譬えの意味』新教出版社135頁参照)。
 キリストは、マタイ7:9-11において、こう言われています。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。
 だから私たちは、神の愛を信じて、気を落とさずに、絶えず祈ることができるのです。重要なのは、私たちが神を愛することよりも、私たちが神の愛を受けることなのです。哲学者の岩田靖夫氏はこう言っています。
 「『人と神を愛しなさい』と言うけれど、『人と神を愛する』というよりは、『人と神に愛されるにまかせる』のである。それが大事だ。ゆだねるということは、私と他者との間に、あるいは、私と神との間に、邪魔なものを置かないということである。自己防衛のメカニズムを作らない。他者の愛、あるいは、神の愛が入ってくるのに、邪魔なものを自分の中に作らないのが肝要なのだ」(岩田靖夫著『極限の状態と人間の生の意味』筑摩書房195‐196頁)。
 私と他者との間、また、私と神との間にある邪魔なものとは、自己中心主義です。あの「善いサマリア人」の譬えが教えているのは、私たちの隣人になろうと、サマリア人の姿をして旅を続けているキリストが、私たちの内面に住んでおられる、ということです。ところが私たちは、自己中心主義に陥っているために、そのキリストを拒否してしまうことがあるのです(宮本久雄、前掲書211-212頁参照)。
 だから、「キリストよ、私を慈しんでください」と、キリストに祈ることが、私たちにとって大事なのだ、と思います。キリストへの祈りによって、私と他者との間、また、私と神との間にある邪魔なものが取り除かれ、私たちの周りのあらゆる人々と物事が透明になります。透明になるとは、あらゆる人々と物事において、キリストを透かし見ることができるようになる、ということです。
 じつは、私たちが気づいていない時にも、キリストは私たちの内面に住んでおられます。そして、生きるのがつらい時に祈るならば、キリストに気がついて、私たちの心は安らぐのです。