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日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教

聖霊降臨後第16主日(マルコ72430)

               「母と娘

沼崎 勇牧師

教育者の鳥山敏子氏は、「いじめ」に関する教育を実践された方です。「いじめはいけません」、「みんな仲良くしましょう」、「生命を大切にしましょう」などの、抽象的な言葉を繰り返し教えても、何の効果もない。「いじめ」とは何かを、子どもたちの「からだ」に叩き込まなければならない、という思想のもとに、鳥山氏は実践を積み重ねてきました。

例えば、鳥山氏は次のような授業を行なっています。父母がぐるりと取り囲む体育館で、小学校高学年の子どもたち数十人が、「いじめ」を実践するのです。あくまでも演技ですが、実際と同じような場面が繰り広げられます。次第にリアリティーが増してきて、泣き出す子どもも出てきます。しかし、子どもは決して父母や鳥山氏に助けを求めてはならない、という規則があらかじめ設定されています。子どもたちは、自力でどこまで「いじめ」に対抗できるかということを、「からだ」で体験するわけです(中島義道『差別感情の哲学』講談社6365)

ジャン・バニエは、ベツレヘムのキリスト生誕教会に行ったときのことを、次のように述べています(ジャン・バニエ、佐藤仁彦訳『あなたは輝いている』一麦出版社3839)

教会ではちょうど、正教会の司祭がミサを行なっていました。そこでバニエは、正教会の巡礼者たちと一緒に祈りました。祝福されたパンの皿が渡されました(これは聖餐式ではありませんでした)。誰かがバニエにもパンを渡そうとすると、別の人が、「彼は駄目、カトリックだから」と叫んだそうです。バニエは緊張し、震えました。少し経ってから、他の人に分からないように、一人の女性がバニエに近寄ってきて、優しく祝福されたパンを分けてくれました。

バニエは、この時のことを振り返ってこう言っています。「私は感動しました。そして、どれほどのプロテスタントの人々が、カトリックの感謝の祭儀〔聖餐式〕で説明もなく断られ苦しんできたことか、と思わされました」(同書39)

私たちは、多くの場合、自分で経験しないと、「からだ」で感じないと、様々の問題を本当に理解することができないのではないでしょうか。

さて、マルコ7:24以下には、シリア・フェニキアの女の娘をキリストが癒された出来事が記されています。この異邦人の女性は、娘が病気で苦しんでいるので、ユダヤ人であるキリストに助けを求めるために、やって来たのです。

しかしキリストは、この母親の願いを断って、こう言われました。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない〔と、言われている通りです〕」(27節)。ここでは、「子供たち」はユダヤ人であり、「小犬」は異邦人です。しかも、ユダヤ教においては、「犬」は軽蔑の対象です。

キリストは一旦、ユダヤ人と同じように、異邦人よりもユダヤ人を優先すべきだという立場に立って、この異邦人の女の願いを断られました。しかしそれは、ケネス・E・ベイリーによれば、弟子たちの異邦人に対する偏見を、キリストが行動化することによって、弟子たちが自分の偏見を直視せざるを得なくなるためだったのです。

キリストの真意はこうです。「あなたがたが異邦人を犬畜生並の人間だと思い、先生〔わたし〕も彼らを犬並に扱ってほしいものだと望んでいることを、わたしは知っているしかし、注意せよ。それはあなたがたの偏見の結果だ。こうした場面を見聞きして居心地がいいか」(ケネス・E・ベイリー、森泉浩次訳『中東文化の目で見たイエス』教文館338)

この異邦人の女性は、どう答えたでしょうか。苦しんでいる異邦人を軽蔑し、差別語で攻撃する無礼なユダヤ人に対して、同じような侮辱で報復したでしょうか。母親は答えて、キリストにこう言ったのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」(28節)。

母親の真意はこうです。「わたしは知っています。あなたの目にわたしたちが小型犬のように映っているかもしれないと。そして小型犬である以上わたしたちは無価値な存在であると。しかし食事がすめば、小型犬もわずかなパン屑……を投げてもらえます。あなたがわたしの主、先生であることに変わりはありません。あなたが……すべての人に対して憐みを持つ方であることを、わたしは知っています。わたしの娘に分け与える一かけらのパンをお持ちではありませんか」(同書338339)

弟子たちは、この情景を見つめ、耳を澄ましていました。彼らは、病む子どもに対する、これほど深い母の愛を、見たためしがありませんでした。彼女の応答は、弟子たちを異邦人に対する偏見から解放したのです。

そこでキリストは彼女に、こう言われました。「それほど言うなら、よろしい〔その言葉で、じゅうぶんである(口語訳)〕。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」(29節)。母親が家に帰ると、娘の病気は治っていたのです。ここでキリストは、異邦人の娘を癒すことによって、人種差別という壁を壊されたのです。

多くの人は、同じ価値を分かち合う、似た者同士のグループに属しているのではないでしょうか。各グループは、様々に相違しているグループの中で、自分たちをもっとも素晴らしい者と考えているように思われます。他のグループの人たちは、多少とも価値がないと見なされ、間違っている者とされるのです。壁が私たちを分け隔てているのです(ジャン・バニエ、前掲書49)

しかしキリストは、すべての人に対して憐みを持っておられる方です。そして、キリストの具体的な言葉と行ないによって、私たちを様々な偏見から解放してくださるのです。