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日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教

聖霊降臨後第2主日(マルコ2112)

                「四人の友

沼崎 勇牧師

精神科医の佐々木正美氏は、「いじめ」について、次のように述べています。人間は、どんな友だちであっても、友だちがなかったら希望がでてこない、と思います。だから、いじめられている子どもは、たとえいじめる友だちであっても、友だちを失うことによる孤立よりは、彼らと一緒にいようとします。

とても悲しいことですが、いじめにあって自殺をする子どもがいます。そういうとき、まわりの人は言います。「どうしてこんなひどいことになるまで、親にも先生にも言わなかったのだろう」と。確かに、先生や親に乗り出してもらって、いじめをやめてもらうことはできるかもしれません。けれども、そのかわりに友だちを失うことを、いじめられている子どもは恐れています。だから、いじめられていることを言えないのです、と(佐々木正美『続 子どもへのまなざし』福音館書店223)

そもそも友情とは、どのような関係なのでしょうか。アリストテレスによれば、以下の四つの条件を満たす場合、人と人との関係は友情とみなされます。

第一に、他者に惹かれることです。その理由は、共に楽しい時間を過ごせることです。第二に、その際、自分さえ楽しければよいのではなく、相手のために良かれと願う気持ちを抱くことです。第三に、「他者に惹かれる」、「相手のために良かれと願う」という思いが、一方通行ではなく、双方向的である必要があります。そして第四に、相手に対する好意が、双方によって気づかれている必要があります。この四つの条件がそろっている場合に、友情は成立している、とアリストテレスは考えるのです(藤野寛『友情の哲学』作品社4153)

いじめる子といじめられる子の関係においては、この四つの条件は一つも満たされていない、と言わざるを得ません。しかし人間にとって、孤独、孤立ほどつらいものはないので、たとえいじめる子であっても、その子との関係を失いたくない、と思ってしまうわけです。

さて、マルコ2:1以下には、キリストが中風の人を癒された奇跡物語が記されています。ここで「中風」と訳されているギリシア語は、手足の麻痺ないし半身不随を意味する言葉です。半身不随になって、生きる気力のなくなった人を、四人の友だちが、キリストのおられる家に連れてきます。しかし、群集に阻まれて、家の中に入れないので、四人の友だちは、屋根に穴をあけて、病人の寝ている床をつり降ろしました。キリストは友人たちの信仰を見て、半身不随の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と言われたのです。

ところが、ユダヤ教の律法学者は、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している」(7節)と考えました。そこでキリストは、彼らに言われました。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(9節)。そして、キリストが半身不随の人に、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11節)と言われると、その人の病気が治ったのです。

「あなたの罪は赦される」という言葉は、あなたは神に受け容れられている、ということを意味しています。しかし、罪の赦しを信じることは、決して容易ではありません。神に受容されている自己を肯定する勇気は、自己自身への信頼に根差しているのではありません。私は善人である、賢い人である、敬虔な者である、という自己自身への信頼を捨てることができたとき、かえって、ありのままの自己を肯定することができるようになるのです。なぜなら、ありのままの自己を肯定する勇気は、ただ神の赦しにのみ基づいているからです。

このことを信じていたからこそ、四人の友だちは、半身不随の人をキリストのもとに連れてきたのだ、と思います。そのような神への信頼を見て、キリストは半身不随の人に、「あなたの罪は赦される」と言われたのです。そして、口先だけの慰めではないことを示すために、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と、キリストは言われたのです。

友だちは、人生にとってとりわけ必要なものです。例えば、アリストテレスは、次のように述べています。「愛〔友情〕は人生にとって必要不可欠なものでもある。なぜなら、たとえ、その他のすべての善いものを所有していたしても、友人なしには誰も生きとを選ぼうとはしないであろう。実際富裕なひとびとにとっても、支配や権勢手にしているひとびとにとっても、友何よりも必要なものであると思われている」(アリストテレス著・加藤信朗訳『二コマコス倫理学』岩波書店250)

友情が成立していない場合には、誰かが苦しんでいると嬉しくなったり、誰かが喜んでいると悔しくなったり、羨ましくなったりします。しかし、友情が成立している場合には、その人が喜んでいれば自分も嬉しくなり、その人が苦しんでいると自分もつらくなります。友だちに対して、相手のために良かれと願う人こそ、真の友だちなのです。

半身不随になって、生きる気力のなくなっていた男の友だち四人は、こう考えました。「私たちが彼のためにできることなんて、泣きたくなるほど僅かだ。でも、自分たちにできることは、私たちはする」と。

そして、四人の友人のおかげで、半身不随の人は、キリストに出会うことができました。キリストに出会い、この人の心の中に、もう一度、自己を肯定する勇気が生じ、起き上がることができたのです。私たちも、イエス・キリストに出会い、生きる勇気をいただいて、友だちと共に歩んで行きましょう。