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日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教

聖霊降臨祭(使徒2:1-21) 

            「聖霊の働き」

                           沼崎 勇牧師
 
 東日本大震災直後に始められた、仙台フィルハーモニー管弦楽団の被災地での演奏活動を撮った、NHK・Eテレのドキュメンタリー番組「音楽になにができますか~仙台フィル・復興コンサートの記録~」(2016年7月放送)を紹介します(以下の記述は、鷲田清一著『「透明」になんかされるものか』朝日出版社103-106頁に負っている)。
 「いま演奏などしている時か」というためらいと、「こういう時にできなかったら、いったい何のための音楽か」という思いの間で、心を乱したまま、楽団員たちは、各地の避難所や集会所で演奏活動を始めました。その映像の中で、ある人が「もう泣いていいんだ、と思えた」と呟きました。
 目の前に広がる光景に絶句したり、不意を襲う恐怖に息を詰めたり、気持ちが金縛りにあったように硬直し、緩めることすらできない、そんな思いの中にある人々が、長く聴いていなかった音楽に触れたら、どんな反応を起こしてしまうのか、楽団員たちは不安でした。そんな中で一人の人が口にしたのが、「もう泣いていいんだ、と思えた」という言葉でした。
 音楽に触れた時、空気の抜けた風船のようにしぼんだ心に、いろんな音の粒が、すーっと入り込んできたのです。気持ちがほどかれ、そこに何かが流れ込んでくるさまを、「お風呂に入った時のように、体がポカポカしてきて」と語る人もいました。
 音楽が人々の中に、悲喜こもごもの普段の暮らしの感覚を、つかの間であれ、よみがえらせたのではないでしょうか。それは、ようやっと悲しむことができるようになった、ということでもあったのだ、と思います。
 さて今日は、聖霊降臨祭です。過越祭(イスラエルの民がエジプトから救い出されたことを祝う祭)から数えて、50日目の日(五旬祭)に、心を合わせて熱心に祈っていた弟子たちの上に、聖霊が降りました。そして、世界各地からエルサレムに集まっていた人たちに、イエス・キリストの福音が宣教され、最初の教会が誕生した記念日が、聖霊降臨祭です。
 使徒2:1-4には、次のように記されています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。
 「霊」とは、聖書の用語では「ルアハ」(ヘブライ語)、「プネウマ」(ギリシア語)であり、「風」、「息」と訳すことのできる言葉です。「霊」は風です。ですから、激しい風が吹くような音が聞こえ、神の「霊」が、熱心に祈っていた弟子たちの上に降りました。
 また「霊」は、人間に命を与える神の「息」です。創世記2:7にはこう記されています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。そしてキリストは、ヨハネ20:22において、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われました。
 ところで、まど・みちおさんは、自作の童謡「ぞうさん」について、次のように述べています(以下の記述は、まど・みちお著『いわずにおれない』集英社11-13頁に負っている)。
 「ぞうさん/ぞうさん/おはなが ながいのね」と言われた子ゾウは、からかいや悪口と受け取るのが当然ではないでしょうか。この世の中に、あんな鼻の長い生き物は、他にいませんから。私たちなら、「お前はヘンだ」と言われたように感じるでしょう。しかし子ゾウは、褒められたつもりで、嬉しくてたまらないというように、「そうよ/かあさんも ながいのよ」と答えます。それは、自分が長い鼻をもったゾウであることを、誇りに思っているからです。小さい子にとって、お母さんは地球上で一番です。子どもは、大好きなお母さんに似ている自分も素晴らしいと、ごく自然に感じています。つまり、この童謡は、「ゾウに生まれてうれしいゾウの歌」なんです、と。
 この世の中には、様々な生き物がいます。みんなそれぞれに違っているから、素晴らしいのではないでしょうか。人間も、一人ひとり顔や考え方が違っているからこそ、それぞれの人に価値があり、お互いに補い合い、助け合うことができるのです。それなのに私たちは、他者と自分を比較して、自分の方が偉いように思ったり、逆にダメなように感じて、他者をうらやんだり、人の真似をしたりしているのではないでしょうか。
 まど・みちおさんは、こう言っています。「小さい子どもは遊ぶとき、それに没頭して無心で遊びます。あんなふうに、自分の目の前のことに一生懸命取り組んでおれば、つまらんこと考えとる暇はないと思うんです。一生懸命になるっちゅうことは、自分が自分になること。一生懸命になれば、一人ひとりの違いが際だつ。いのちの個性が輝き始める......。自分が自分であること、自分として生かされていることを、もっともっと喜んでほしい。それは、何にもまして素晴らしいことなんですから」(同書13-14頁)。
 あの日、弟子たちは、キリストを失って、空っぽになっていた心に、神の霊がすーっと入り込んできて、息を吹き返したのです。そして、聖霊に満たされた人たちが、ほかの国々の言葉で話しだしたことは、人間はみな違っているからこそ、それぞれに価値があり、お互いに補い合うことができる、ということを示しているのです。
 自分が自分になり、一人ひとりの違いが際だつ時、いのちの個性が輝き始めることを、神に感謝して、生きてゆきましょう。