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日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教

聖霊降臨後第26主日(マルコ1144)

「幸いについて

沼崎 勇牧師

フランスの哲学者フレデリック・ルノワールは、「自分が幸せを感じるのはどういう時か」という問いに対して、次のように答えています。「私の場合、心から幸せだと思えるのは、愛する人たちと一緒にいられるとき、バッハやモーツァルトの名曲を聴いているとき、仕事が順調に捗っているとき、心地よい暖炉のそばで猫を撫でているとき、悲しみや不幸から抜け出そうとする人の力になれたとき、海に面した小さな港町で、友人たちと新鮮な魚介類を味わっているとき、朝起きて一杯の紅茶をすするとき、静かに瞑想しているとき、あるいは愛を交わすとき、無邪気な子どもの笑顔を見ているとき、そして山歩きをしたり、森の中を散歩したりするときだ」(田島葉子訳『お金があれば幸せになれるのか』柏書房1920頁)

このルノワールの答えに、私たちは同意することができます。それに対して、キリストの答えに同意することはできるでしょうか。キリストはこう言われているのです。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:20-21)。

今、中央アメリカのホンジュラスなどから、6000人以上の人たちが、アメリカを目指して旅をしています。ホンジュラスからアメリカまでの距離は、約4000キロです。それを徒歩で目指すことが、どれだけ過酷かは、言うまでもありません。しかもこの集団の中には、約2500人の子どもがいて、その多くが病気にかかっているようです。

なぜそこまでして、多くのホンジュラス人がアメリカに移住しようとしているのでしょうか。その主な理由は、食料難です。ホンジュラスの場合、人口約1000万人のうち、40%が食料難にあえいでいるそうです。特に、昨年も今年も、干ばつに見舞われ、トウモロコシやインゲン豆の収穫が大幅に減少したのです(「東洋経済オンライン」20181114日)

アメリカの神学者であるW.H.ウィリモンとS.ハワーワスは、ホンジュラスの小さな村に住んでいる女性たちの生活について、次のように述べています。彼女たちは、山道をめぐり歩き、料理のための小枝を集めて運ぶことを、毎日の仕事にしています。村に戻ると、今度は料理用の水を運ぶために、再び山に出かけて行きます。ようやく戻ってくると、夫が育てたトウモロコシの一粒、一粒を大切にいとおしみ、この冬を越せるようにと願いながら、粉に挽きます。そうして自分の手でこねたパンをフライパンで焼いて、一つずつ子どもに分け与えます。それが、その日唯一の食事なのです。彼女たちが、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(マタイ6:11)と唱える祈りは、物が溢れているアメリカで暮らす私たちが唱える祈りとは、まるで異なっています

私たちの場合、次のように言うことができるようになる恵みを求めて、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るべきです。「もうこれで十分であるということを知る恵みを与えてください」。「この世界が多くの物によって誘惑してくるときにも、私たちが『いらない』と言えるように助けてください」と(平野克己訳『主の祈り』日本キリスト教団出版局147148頁)

実際に飢え、貧しさの中であえいでいる人たちは、自分は完全に頼り切らなければならない存在であること、どうしても「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈ることが必要な人間であることを、はっきりと分かっています。彼らは、自分たちが生きている命が、神の贈り物であることを、貧しさから教わっているのです。だから、「貧しい人々は、幸いである。今飢えている人々は、幸いである」と、キリストは言われたのです(同書146頁)

さて、マルコ12:41以下には、やもめの献金について記されています。人々がエルサレム神殿の賽銭箱にお金を入れる様子を、キリストは見ておられました。大勢の金持ちがたくさんお金を入れていました。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚(粗末な一食分の食事程度の価値)を入れました。キリストはこう言われました。「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(43-44節)。

このやもめは、生きてゆくために必要不可欠な食べ物がなくて困っている人です。ですから彼女は、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と神に祈りつつ、レプトン銅貨二枚を献げたのでしょう。ところが大勢の金持ちは、この貧しいやもめを、価値のない者として見下していました。なぜなら、大勢の金持ちは、こう考えていたからです。「人間は、自立してひとの支えをあてにせず、自分の力で生きるべきである」と。

しかし、4世紀のカイサリアのバシレイオスは、ある説教の中で、次のように述べています。「あなたの家で食べられることのないパン、それは飢えている人たちのものです。あなたのベッドの下で白カビが生えている靴、それは履物を持たない人たちのものです。物入れの中にしまいこまれた衣服、それは裸でいる人たちのものです。金庫の中で錆びついている金銭、それは貧しい人たちのものです」(同書150頁より引用)

ルノワールはこう言っていました。「心から幸せだと思えるのは、愛する人たちと一緒にいられるとき、悲しみや不幸から抜け出そうとする人の力になれたときだ」。それは、神からの贈り物を、自分のためだけに用いるのではなく、隣人と分かち合うときなのだ、と思います。神からの贈り物を、自分の人生を、隣人と分かち合う人々は、幸いなのです。

聖霊降臨後第22主日(マルコ101731)

               「善い者

沼崎 勇牧師

まど・みちお氏は、「パパ」という詩を作っています。「はなうたで / あかちゃんの / おしめを かえていた パパが / うひぇー! / と さけんで ひっくりかえった // てあし ばたばた / かお くしゃくしゃ / わっはっはっは / わっはっはっは // いったい どっちが / あかちゃんなんだ / こんな うれしそうな パパ / はじめて みるけど / パパだって はじめてなんだろ // バラの かおりの あったかい / てんしの ふんすいで / かお あらっちゃうなんて…」(『続 まど・みちお全詩集』29)

あかちゃんは、自分一人では、まだ何もすることができません。しかし、あかちゃんは私たちに、まさにそのような仕方で大きな喜びをもたらします。それは、私たちの愛に満ちた眼差しによって、あかちゃんが生きているからです。逆に、私たちの怒りに満ちた眼差しは、あかちゃんのもっとも深い内面まで震撼させることができます。

あかちゃんは泣くことで、小さな子どもは遊ぶことで、自分たちがそこにいるという、ただそのことだけを示します。子どもは、他人を気にせず、気ままに振る舞います。それゆえに子どもは、どんな小さな悪さにもかかわらず、天の国に近いのです。というのも子どもは、神からの贈り物を受け取るために、何かをしようとすることがないからです。子どもは、贈り物を素直に受け取るわけです(『エーバハルト・ユンゲル説教集4』164165)

さて、マルコ10:17以下において、ある金持ちの男が生きる意味を探し求めて、キリストのもとにやってきて、こう尋ねました「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」(17節)。「永遠の命」とは、神の前で存続することができるように、神と共に生きるということです。それは、現代の言葉に言い換えれば、生きる意味のある人生です。

キリストは彼に答えて、言われました。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)。この男にとって、キリストは魅力的な人物、尊敬に値する教師でした。しかし教師は、生徒を真理へと導くべき人間です。というのも、真理だけが善いものであるからです。

そして神だけが、真理と一つであるがゆえに、「善い者」なのです。神は、たとえ見かけがどんなものでも、本当はそれが何であるかを、明らかにされます。神を相手にするとき、私たちは自分自身を知ることを学ぶのです(同書159161)

またキリストは、こう言われました。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)。それを守りなさい、と。すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(20節)と言いました。

キリストは彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。この金持ちの男は、キリストの言葉に気を落として、悲しみながら立ち去りました。

この金持ちの男は、神の戒めをすべて行なったにもかかわらず、自分の人生に意味を見出すためには、何かが足りない、と考えていました。そして彼は今、人生の意味を努力して獲得したいと願い、善いことを自分で行なおうと欲してました。しかし、人生の意味を努力して獲得することは、人間には決してできないのだということに、彼は気づくことができなかったのです(同書162163)

まど・みちお氏は、「気がつくことがある」という詩を作っています。「あることを思いだしていて /あ あの時… と気がつくことがある / 雪がちらちらふっていた… / 暑い日だった蟬がないてて… などと / 関わっていたその時その事を私ごと / 抱きかかえていて下さった天の / 大きなさりげないやさしさに… // ああしていつだって天は / 立ち会っていて下さったし下さるのだ / 生きて関わるかぎりの / この世のすべての生き物の / どんなときどんな所でのどんな小さな / 「私事」をでも 天ご自身の / かけがえない「我が事」として」(まど・みちお前掲書145)

まど・みちお氏は、気がつきました。どんな時どんな所でのどんな小さな事にも、神が立ち会っていてくださったし、これからも立ち会ってくださるということに。しかし、この金持ちの男は、神の愛の眼差しに気づくことができなかったので、悲しみながら立ち去ったのです。

けれどもキリストは、この金持ちの男を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と。ここでキリストが捨てるように勧められたのは、財産という外的な宝物ではなくて、「自分自身への執着」なのだ、と思います。

この金持ちの男に注がれたキリストの愛は、もはや彼を手放すことはありません。この愛の眼差しは、これからも彼に伴い行くでしょう。そして、この愛の眼差しは、私たちにも伴い行くでしょう(エーバハルト・ユンゲル前掲書166)

あかちゃんは、大人の愛に満ちた眼差しによって生きています。あかちゃんは泣くことで、自分がそこにいるという、ただそのことだけを示しています。私たちも、自分自身への執着を捨てて、神の愛の眼差しに、もう一度戻ってくることが大切なのです。