顕現主日(マタイ2:1-12)
「イエスと学者たち」
顕現主日は、イエス・キリストと占星術の学者たちとの出会いを、記念する日です。約2000年前、キリストの誕生を知った占星術の学者たちは、東方から(外国から)ベツレヘムに到着し、幼子イエスに出会い、礼拝しました。「顕現」と訳されているギリシア語には、「輝き出る」という意味があります。キリストの輝きが、全世界の人々に及ぶようになったことを記念する日が、顕現主日です。それでは、キリストの輝きとは、どのような光なのでしょうか。
マタイ2:1-2には、次のように記されています。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」。
これを聞いたヘロデ王は、ユダヤ教の指導者たちを集めて、キリストはどこに生まれることになっているのか、と問いただしました。ユダヤ教の指導者たちは、「ユダヤのベツレヘムです」(5節)と答えました。そこでヘロデ王は、キリストを見つけて殺すために、占星術の学者たちをベツレヘムへ送り出しました。
吉野弘さんは、「顔」という詩を作っています。「樹木の根のように/闇を抱く営みが人間にもある/樹木の梢のように/光を求める営みが人間にもある//光と闇に養われる人間は、しかし/光と闇を公平に愛する術を知らぬ/崇高でも醜悪でもない僕らの顔は/こうして出来たのだ//樹木は裸。胴も腕もあらわだが/顔はない。顔をもたない気安さで/周囲や自分と和解するのか//樹木の顔とおぼしいあたり/青い冬空の/冷たい安らぎが漂っているばかり」(『吉野弘全詩集』青土社213‐214頁)。
ヘロデ王は、光よりも闇を愛し、力の原理の上に立って、君臨している人間です。もちろん私たちは、闇だけではなく、光を求めて生きています。しかし時として、暗闇に覆われて、光を見失うことがあるのではないでしょうか。
占星術の学者たちは、道に迷うことなく、夜空に輝く星に導かれて、幼子イエスのおられる場所に、無事に到着しました。マタイ2:9-11には、次のように記されています。「〔占星術の学者たちが〕出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。
占星術の学者たちは、イエス・キリストの光に照らされたので、ひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのです(以下の記述は、アンゼルム・グリューン著、中道基夫、萩原佳奈子訳『クリスマスの黙想』キリスト新聞社198‐200頁に負っている)。神学者のカール・ラーナーは、学者たちの贈り物を次のように解釈しています。「黄金はわたしたちの愛、乳香はわたしたちのあこがれ、没薬はわたしたちの痛みである」と。ラーナーは、贈り物の中に、神の子に対する、人間の側の相応しい振る舞いのシンボルを、見ているわけです。
没薬は、古代では、「天国の薬草」と言われていました。カトリック教会の司祭である、アンゼルム・グリューンによれば、没薬を贈ることは、私たちの傷を神に差し出す、ということです。グリューンは次のように述べています。
「わたしたちの傷つき、萎えたこころを、神の子に献げます。そこには、神の子がこの傷を癒してくれ、そしてそれを別のものに変えてくれるという信頼があります。……わたしたちはもはやその傷に不満を抱くことはありません。神の子においてわたしたちを輝かせる愛へと、わたしたちは自分をその傷と共に委ねます。すると、たとえ外面的や内面的に傷ついていたとしても、わたしたちは楽園にいます」(同書200‐201頁)。
イエス・キリストの光は、私たちの傷ついた心を癒す、神の愛に他なりません。キリストの愛の光に照らされる時、私たちは、たとえ外面的や内面的に傷ついていたとしても、自分を愛することができるようになるのです。
吉野弘さんは、「ぬけぬけと自分を励ますまじめ歌」という詩を作っています。「他人を励ますのは、気楽です/自分を励ますのが、大変なんです//私は誰か、私は何か/知ってしまったあとだもの//私は自分に言い聞かせるの/私はこれから咲く花ですよ//それはちょっぴりウフフ/それはちょっぴりアハハ//都合のいい夢咲かせていよう/私は遅咲き大輪の花//自分をいじめるのは、子供です/自分をいじめないのが、大人です//アハハウフフ アハハウフフ/私はウフフの大人でいよう/アハハで励ます大人でいよう」(『吉野弘全詩集』青土社792‐793頁)。
吉野弘さんが言うように、自分を励ますということは、意外に大変なことなのではないでしょうか。実は、私たちは、いつもは強がっていても、何かあるとすぐにへこんでしまう、弱い人間なのではないでしょうか。こういう私たちを、キリストの愛の光は、癒してくださるのです。占星術の学者たちも、キリストの愛を知ることで、自分を愛する者になりました。
イエス・キリストを知ることで、私たちは、周囲の人々や自分と和解し、自分自身を愛することができるようになります。たとえ私は誰か、私は何者かを知ってしまった後でも、イエス・キリストの愛の光に照らされるならば、私たちは、自分を励まし、希望を抱くことができるようになるのだ、と思います。