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日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教


顕現節第2主日(マルコ1911)

 

「御心に適う人」

 

沼崎 勇牧師

 

現代においては、多くの人が、次のように考えているのではないでしょうか。「私が生きるために、幸せであるために、人生を楽しむために、自分の願望をかなえるために、本当に神が必要でしょうか」と。

このような疑問に対して答えるための手がかりが、アキ・カウリスマキの映画『枯れ葉』の中にはある、と思いますので、ストーリーを紹介します。ヘルシンキのスーパーマーケットで働くアンサは、友人のリーサとカラオケバーに飲みに行きます。そこに、工場で働くホラッパと同僚のフオタリがやってきます。アンサとホラッパは惹かれ合いますが、視線を交わすだけで、お互いに声をかけることすらできません。

その後アンサは、スーパーを理不尽な理由で解雇されます。怒ったリーサも一緒に辞めます。アンサは、パブの皿洗いの仕事に就きますが、オーナーが麻薬の密売で捕まってしまい、また失業します。ちょうどそこにやってきたホラッパとアンサは、映画を見に行き、「また会いたい」と言うホラッパに、アンサは電話番号を書いたメモを渡します。しかしホラッパは、メモを失くしてしまいます。その上、ホラッパは勤務中の飲酒がばれて、解雇されるのです。

お互いを探す二人は、ようやく映画館の前で再会し、アンサはホラッパを、自宅でのディナーに招待します。穏やかに食事をしていたのですが、隠れて酒を飲むホラッパを、アンサは非難します。そしてアンサは、「父と兄は酒で死に、母はそれを嘆いて死んだ」と話します。するとホラッパは、「指図されるのは御免だ」と言って、家を飛び出します。

ある日アンサは、新しい職場に迷い込んだ犬を引き取ることにします。一方、アンサを逃し、ますます酒におぼれるホラッパは、新しい仕事もクビになります。住む場所もなくなり、ホステルで酒を飲んで過ごしていたホラッパは、ふと我に返り、酒をすべてシンクに流し、断酒を決意ます。そしてホラッパは、アンサに電話をかけます。「すぐ来て」と言うアンサのもとへ向かったホラッパは、路面電車に轢かれてしまいます。

ホラッパが来なかったので落ち込んでいたアンサは、偶然フオタリに出会い、ホラッパが意識不明だと知り、病院にかけつけます。眠り続けるホラッパに、アンサはずっと寄り添います。彼女の想いがホラッパに届き、やがて彼は目を覚まします。退院の日、秋の枯れ葉が舞う中を、アンサ、ホラッパ、そして犬のチャップリンが、まっすぐに歩いて行くのです。

さて、マルコ1911には、次のように記されています。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて‟霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。

神はこの言葉を、キリストに対してのみ語られたのではなくて、キリストを信じている私たちに対しても語っておられるのだ、と思います。この神の言葉を、宮平望さんは、「あなたこそ私の愛する子であり、私はあなたを喜ぶ」と訳しています。

「喜ぶ」と訳されているギリシア語の意味は、「良いと思う」ということです。ここで神は、御自分が創造された人間一人一人に対して、「あなたこそ私の愛する子であり、私はあなたを良いと思う」と言われているのです(宮平望著『マルコによる福音書』新教出版社2627頁参照)

この出来事について、ヘンリ・ナウエンは、次のように述べています。「私が固く信じていることは、イエスの公生涯〔公の生涯〕の核となる瞬間は、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』〔マタイ317〕という承認の声を聞いた、ヨルダン川で洗礼を受けた瞬間です。それこそが、イエスの核となる経験でした。自分が何者であるかを深く、深く心に刻み、それを自覚したのです。荒れ野での誘惑は、この霊的なアイデンティティからイエスを遠ざけようとする誘惑でした。……すなわち、『あなたは石をパンに変えることができ、神殿から飛び降りることができ、民衆をひざまずかせる力がある人です』と。しかし、イエスは言われました。『いいえ、そうではありません、違います。わたしは神に愛されている者です』。わたしが思うのは、イエスの全生涯は、すべての出来事のただ中で、このアイデンティティを絶えず主張し続けた歩みだったということです。称賛されたり、軽蔑されたり、拒否されたりした中で、こう言い続けたのです。『人々はわたしを見捨てるでしょう。しかし、わたしの父は見捨てません。わたしは神に愛されている息子です。そこに、わたしは希望を見いだします』」(ヘンリ・ナウエン著『ナウエンと読む福音書』あめんどう35)

そしてキリストは、私たち一人一人に、こう語りかけてくださっているのです。「あなたは、神から愛されています。あなたは、神の御心に適う者です」と。この優しいキリストの声は、さまざまな経路をたどって届きます。両親、友人、教師、同僚、そしてまた、人生の道筋で出会う人々が、それぞれの言い方で、キリストの声を私たちに、届けてくれるのです(ヘンリ・ナーウェン著『愛されている者の生活』あめんどう33頁参照)

「私が生きるために、本当に神が必要でしょうか」という問いに対して、私たちはこう答えます。「私が生きるためには、愛が必要です。そして、神は愛です。神に愛されていることを信じる限り、私は、称賛されたり、軽蔑されたり、拒否されたりする中でも、自分を見失わずに、生きることができます。だから、私が生きるためには、神が必要なのです」と。


顕現節第5主日(マルコ12939)

 

「癒しについて」

 

沼崎 勇牧師

 

1995117日に発生した阪神淡路大震災は、被災した人々の心に深い傷を残しました。このような耐えがたい体験を過去のものにすることができず、強い恐怖や無力感が、現在の生活をそこなってしまう状態が、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」です。心の傷の後遺症と言っても良いでしょう(デビッド・ロモ著『災害と心のケア』アスク・ヒューマン・ケア82頁参照)

精神科医の安克昌さんは、大震災が起こった後、避難所を訪問して、救護活動を行いました。また安さんは、神戸大学病院の医師として、外来の患者を診つづけました。PTSD を患っていた、外来の患者のJさんについて、安さんは、次のように述べています(以下の記述は、安克昌著『[新増補版]心の傷を癒すということ』作品社707499103頁に負っている)

Jさんの住む地域は、大規模な火災で焼け野原になりました。彼女は、夫とともに火の中を逃げまどいました。路上には、「助けて、助けて」と叫ぶ人たちがいました。おそらくその人たちの家族が、建物の下敷きになっていたのです。Jさんは、その時の記憶に苦しんでいました。

「しかたなかったんです。私も逃げるのが精一杯だったんです。助けてあげられなかった。……それで自分を責めてしまうんです。今も耳元で『助けて、助けて』という声がするんです。……でも、誰にもこんな話はできないんです。ほんとに地獄でした。あれを知らない人には、話してもわかってもらえないと思うんです」(同書71)

安克昌さんが処方した精神安定剤は、Jさんの睡眠をいくぶん改善し、気持ちを少しは落ち着かせました。しかし、それでは十分ではありませんでした。安さんは、こう述べています。「この場合、私はただ傾聴するほかはない、と思う。……私は、ひたすら彼女の話の邪魔をせずに、批判や注釈を加えずに聞いた」(同書73)

その後、Jさん夫婦は運よく、マンションを隣の市に見つけることができました。そこで二人は、二か月先の引っ越しまで、避難所から半壊した元のマンションに帰ることにしたのです。そしてJさんは、少しずつ笑顔を取り戻していきました。きっかけは、小さなことでした。ある時Jさんは、夫とともに家からかなり離れた海岸に行ってみました。「砂浜にいると安心できるんです。ここで地震にあっても、倒れてくるものはなんにもないでしょう」(同書101102)Jさんはそう言いました。

それからJさんは、しょっちゅう夫婦で、海岸を散歩するようになりました。また、時々もといた避難所を訪れ、そこで親しくなった人と、外に昼食を食べに行くようになりました。予定通りJさんは無事に転居し、病院にも来なくなりました。彼女のPTSDは癒されたのです。Jさんは、家族にいたわられ、避難所の人たちと苦楽を分かち合い、新しい家を見つけ、やすらぎを与えてくれる自然と出会いました。このようなことの一つ一つが、Jさんを回復させていったのです。

さて、マルコ12934には、次のように記されています。「一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」。

ここに記されているキリストの行為は、基本的に「治療」ではありません。「治療」は、基本的に体への対応です。「癒やし」は、手当てで体の苦痛に対処することが含まれても、基本的には心への対応です。両者の違いについて、聖書学者の山口里子さんは、次のように述べています(以下の記述は、山口里子著『マルコ福音書をジックリと読む』ヨベル4344頁に負っている)

例えば、「見えない・歩けない」人を、「見える・歩ける」身体を持つ人にするのは、治療することです。これは、特に病気・障がいによる身体的苦痛を解消・軽減することであり、いのちにとって大事なことです。一方、癒しは、病気・障がいの有無にかかわらず、その人自身が生きることを肯定することです。これは、偏見から解放されて、人がその人のままで、自尊心・尊厳・前向きに生きる希望を回復することです。

当時の人々は、病気・障がいを、罪に対する神の罰と見なして、病人や障がい者を差別し、排除していました。しかしキリストは病人や障がい者に、次のように宣べ伝えられたのです。「病気や障がいは神の罰ではなく、神はあなたたちを、そのまま愛しておられる」と。だから、キリストに出会った人たちは、心の底から癒されて、前向きに生きる希望を持つことができるようになったのです。

ドイツの詩人ヨッヘン・クレッパーは、「夕べの慰めの歌」という詩を作りました。「深い憂いがわたしを苛んだ時、/あなたのまことを告げる約束がわたしに語られた。/つまずく者をあなたは導かれた、/そして、そののちも常に深淵から引き出してくださる。/道が見えなくなった時にはいつも/御言葉が道を示した。行きつく先はすぐ近くにあった。//……//わたしを囲むすべての夜々に/この身をあなたの腕に委ねることが許されている。/あなたは愛のほかは何も想わず、/わたしを見守り、すべての人を見守られる。/あなたは闇の中でわたしを匿い、/御言葉は死の床でも決して揺らぐことはない」(ヨッヘン・クレッパー著『キリエ』教文館3233)

深い憂いが私たちを苛む時、キリストは私たちの祈りを聞き、こう語りかけて、癒してくださるのです。「神は、あなたたちを、そのまま愛しておられる」と。