本文へスキップ

日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教

顕現節第6主日(マタイ5:21-37)

              「和解について」
                           沼崎 勇牧師

 哲学者の鷲田清一氏は、「『寛容』への希い」の中で、次のように述べています(以下の記述は、鷲田清一著『「透明」になんかされるものか』朝日出版社49-52頁に負っている)。
 「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。18世紀フランスの哲学者、ヴォルテールのものとされる、この言葉は、「寛容」の精神のエッセンスを端的に表しています。
 ところが、異なる人々の共存を謳う言葉でありながら、「寛容」は、「多様性」ほどには、話題になりません。それは、日本語の「寛容」には、「寛大」に似て、「認めてあげる」という、いわば上から見下ろすような語感が伴うためかもしれません。
 「寛容」は英語ではトレランスであり、「耐える、辛抱する」を意味するラテン語に由来する言葉です。「寛大な心」はジェネロシティが近いでしょう。こちらは、「高貴な生まれの、度量の大きい」を意味するラテン語に由来します。西洋の言葉でも、「寛容」にはどこか、自分とは考えや信念の違う人をしぶしぶ、つまり、自らの感情に反してでも認める、という意味合いがあるようです。
 実際、人の心に深く根を下ろしている思想や信念などの場合、自分のそれに反するものは、認めにくいのではないでしょうか。そこで、神学者の森本あんり氏は、「不寛容は許せないとするより、自分は思いのほか不寛容な人間だと認める方が、かえって人々の共存できる場は広がる」と言うのです。
 また、フランス文学者の渡辺一夫氏は、「寛容は自らを守るために、不寛容に対して不寛容であるべきでない」と言いました。というのも、寛容を守るために、不寛容を打倒すると称して、寛容が不寛容に裏返る例は、歴史を見れば、たくさんあるからです。寛容は、寛容によってしか守れないのです。
 さらに渡辺氏は、こう言っています。「ただ、心配なことが一つある。不寛容のほうが、手っ取り早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見えるために......寛容よりも、はるかに魅力があり、『詩的』でもあり、生甲斐をも感じさせる場合も多いということである。あたかも戦争や暴動のほうが、平和よりも楽であると同じように」。
 このように寛容をめぐる議論は、つい上から見下ろすような目線になったり、不寛容のほうが楽で、かつ勇ましく見えたりするというように、なかなか一筋縄では行きません。また、寛容を通すべき場面と、寛容でなくていい場面の区別も、思いのほかむずかしいのです、と。
 さてイエス・キリストは、山上の説教の中で、こう言われました。「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5:21-22)。
 旧約聖書においては、故意による殺人は、きびしく裁かれました。創世記9:6には、次のように記されています。「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。
 生命が尊重される理由は、人が「神にかたどって」造られたからです。いかなる人も、その生命を傷つけられたり、殺されたり、また差別されてはなりません。それは、創造主である神に逆らうことです。
 そして聖書は、神と人間との関係を、「召し」という言葉で表現しています。例えばパウロは、ガラテヤ5:13-14において、こう言っています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。
 「召し」とは、神がその人を選び、呼び出し、受け入れておられる、ということです。私たちは、真の自己に目ざめ、私が私であることに満足して生きるために、神に召されたのです。そこには、自分を召した方、自分を受け入れてくださった方が喜ばれるように生きる、という姿勢が生まれるのです(関田寛雄著『あなたはどこにいるのか』一麦出版社57頁参照)。
 イエス・キリストはこう言われました。「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい」(25節)。私たちは、他者と和解し、共に生きるために、神に召されたのです。この点について、カトリック教会の司祭、アンゼルム・グリューン氏は、次のように述べています。
 「あなたは相手と内的な距離を置くことによって、自分が受けた傷をしっかりと見て、自分の身を守ろうとします。あなたは距離をとることによって、その人を愛そうとします。その人自身が傷ついているから、あなたを傷つけるのです。......彼の言葉は確かにあなたを傷つけます。しかし、あなたはその傷にはまり込んで動けなくなるのではありません。あなたはその傷から内的に距離を置くことができます。あなたは、その傷を神が癒してくれることを信じます。そして、この信頼からあなたは、自分を傷つけた人をも愛することができるのです。それが、傷つけられ、報復のために傷つけるという悪循環を打ち破り、その人〔自分を傷つけた人〕の苦しみを癒す可能性を与える非暴力なのです。そのとき、あなたは、その人を自分の味方につけ、そしてその人をいのちと愛に招き入れるのです」(アンゼルム・グリューン著『魂にふれる50の天使』キリスト新聞社169頁)。
 私たちは、「ヘイト」という排外性、つまり、不寛容になだれ込まずに、他者と和解し、他者と共に生きるために、神に召されたのです。