聖霊降臨後第10主日(ルカ12:49-53)
「神の御心」
沼崎 勇牧師
人形作家の辻村寿三郎(1933-2023年、享年89)さんは、戦後20年の1965年、「ヒロシマよりこころをこめて」というタイトルの作品を発表しました。それは、15、6歳の少年と10歳くらいの女の子の人形です(以下の記述は、梯久美子著『昭和二十年夏、子供たちが見た戦争』角川文庫97‐127頁に負っている)。
女の子は、胸に猫を抱いています。二人とも、ぼろぼろの服を身にまとい、髪はほこりをかぶってぼさぼさ、顔はうすぐろく汚れています。しかし、二体の人形は、全身から強いエネルギーを放っています。特に、その目は輝いています。じつは、この人形には、実在するモデルがいるのです。
辻村さんは、1944年の春に旧満州から引き揚げ、母親の姉が住んでいた広島市で暮らすことになり、大芝国民学校(小学校)の4年生に転入しました。友だちもできたのですが、辻村さんは広島の生活になじめず、1945年4月、母親の郷里である三次に引っ越し、三次国民学校(小学校)の5年生に転入しました。それから4ヶ月後の8月6日、広島に原子爆弾が落とされたのです。
その年の11月の終わり頃、辻村さんは広島市に向かいました。大芝国民学校で仲良しだった、みっちゃんという女の子を探しに行ったのです。みっちゃんも満州からの引き揚げ者だったのですが、原爆の後の消息がわからなくなっていました。
辻村さんは、思い当たるところを探し回ったのですが、駄目でした。原爆ドームのところに水の出る水道があって、そこに孤児になった子供たちが寄り集まっているらしい、という話を耳にして、辻村さんが行ってみると、みっちゃんが、お兄ちゃんと一緒にいました。その時、みっちゃんは、死んだ猫を抱いていました。辻村さんは、その時の二人の姿を人形にしたのです。その後、1年くらいで、みっちゃんもお兄ちゃんも死んでしまったそうです。
辻村さんは、「ヒロシマよりこころをこめて」というタイトルの人形について、次のように述べています。「戦火のさなかで、ひどい状態にあっても、子供はぼろぼろにならない。いまだってそうですよ。戦争やっている国の子供を見てごらんなさい。実は私、そういう子供たちの人形を作っているんです。足が片方なくなってしまったアフガンの子なんかも作ったけれど、あの子たちの目って、カーッと輝いている。あの輝きをどうしても表現したくてね。......なんであんなにきれいな目をしているのか。大人には見えない、なにか遠くのものを見ているのか」(同書120‐121頁)。
辻村さんが、広島のみっちゃんとお兄ちゃんの人形を作ったのは、自分の政治思想を表明するためではなく、人間を表現するためだったのだ、と思います。
さてルカ12:51-52において、キリストはこう言われています。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである」。
キリストのこんな激しい言葉を聞くと、私たちは、いったいどうしたら良いのだろうか、と思い悩みます。宗教的対立は、この世界の中に、すでにたくさんあるのではないでしょうか。キリストはここで私たちをそそのかし、人々の間に分裂を生み出すために、私たちを立ち上がらせようとしておられるのでしょうか。このキリストの非常に激しい言葉について、ヘンリ・ナウウェン氏は、次のように述べています。
「わたしは、神の心、愛だけしかない神の心にわたしたちを呼ぶ人としてイエスを見ようと、心に決めてきた。これこそわたしが、激しい言葉も含めてイエスのすべての言葉を考えるときの基本的な考え方だ。イエスは、数々の分裂を生み出してこられた。しかし、この分裂は忍耐心のなさや、冷静さを失った信仰の結果ではない。愛し、赦し、和解せよという彼の根本的な呼びかけの結果だと信じるほうを、わたしは選ぶ。
いつでも人々のあいだに理解が生まれ、癒やしと赦しと一致を促せるときには、わたしはそうするように努めていこう。わたしが、あまりにも柔軟で、自説を曲げ、相手の言いなりになりすぎると非難されてもかまわない。この願いは、真理に対する真剣さや熱意が足りないゆえの願いだろうか?......〔しかし、〕わたしにも守るべき立場はある。イエスがわたしとともに立っていてくださるという立場だ。
わたしの願いに反して分裂が生じたら、わたしがそれを防ごうとしたのと同じ愛をもって、その分裂を生きる勇気を探そうと思う。そうすれば、イエスの厳しい言葉が慰めにみちたものだ、ということがわかるだろう」(ヘンリ・ナウウェン著『最後の日記』女子パウロ会193‐194頁)。
キリストは、愛だけしかない神の心に、私たちを呼ぶ方です。確かに、この世界には、分裂や対立がたくさんあります。しかし、キリストは私たちに、「愛し、赦し、和解せよ」と、今も、呼びかけておられるのです。
辻村寿三郎さんは、こう言っていました。「戦争やっている国の子供を見てごらんなさい。......あの子たちの目って、カーッと輝いている。......なんであんなにきれいな目をしているのか。大人には見えない、なにか遠くのものを見ているのか」。
子どもたちは、大人には見えない、愛だけしかない神の心を見ているので、きれいな目をしているのだ、と私たちは信じます。神は、キリストを通して、そして、子供たちの輝いている目を通して、「愛し、赦し、和解せよ」と、私たち一人一人に、呼びかけておられるのです。