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日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教

復活後第3主日(ヨハネ10:22-30)

                 「キリストの声」
                                沼崎 勇牧師

 他者の苦しみを思いやる愛を、私たちが学ぶ機会として、動物との出会いがあるのではないでしょうか。ローマ・カトリック教会の司祭である、オランダ生まれのヘンリ・ナーウェンは、山羊との出会いを紹介しています(以下の記述は、ヘンリ・ナーウェン著『いま、ここに生きる』あめんどう65-67頁に負っている)。
 第二次世界大戦が終わる1945年、ナーウェンが13歳の時、彼は父から子山羊をもらいました。その山羊の名はワルターといいました。彼は、その時、ノルマンディー作戦で上陸した軍隊と大きな川で隔てられたオランダの地方に住んでいました。多くの人が、飢餓のために死んでいきました。
 ナーウェンは、子山羊のワルターのために、何時間もかけてドングリを集めました。彼は、ワルターを遠くまで散歩に連れ出したり、車庫の隅に囲いを作ってやったりしました。毎朝、起きるとすぐにワルターに餌をやり、学校から戻ると、すぐに囲いの中を掃除し、ワルターに色々なことを話しました。ナーウェンとワルターは、無二の親友でした。
 ところが、ある朝早く、ナーウェンが車庫に行ってみると、囲いの中は空っぽでした。ワルターが盗まれたのです。ナーウェンは、悲しみのあまり泣きじゃくり、泣き叫びました。両親も、彼をどう慰めたらよいか分かりませんでした。それが、ナーウェンが初めて学んだ愛と喪失の体験でした。
 戦後、何年もたって食べ物に不自由しなくなったころ、父がナーウェンに、こう話してくれたそうです。彼の家で働いていた庭師が、ワルターを盗んで、飢えた彼の家族に食べさせた、と。父は、庭師が盗んだことを知っていましたが、ナーウェンの深い悲しみを知っていながら、一度もその庭師を問いただすことをしませんでした。
 この子ども時代のもっとも鮮明な思い出を振り返って、ナーウェンは次のように述べています。「いま、私はワルターも父も、思いやる愛とは何かを私に教えてくれたのだとしみじみ思うのです」(同書67頁)。
 さてキリストは、ヨハネ10:10-11において、こう言われています。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。
 良い羊飼いは、命を張って、自分の羊を守ります。詩編23編は、神を羊飼いにたとえて、次のように歌っています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(1-4節)。
 この詩編は、悲しいことが私たちには起きない、ということを語っているのではありません。そうではなくて、「死の陰の谷を行くときも」とあるのですから、悲しいことに独りで立ち向かう必要はない、ということを語っているのです。「あなた〔神〕がわたしと共にいてくださる」のです。
 アメリカのイェール大学で哲学・神学を教えていた、ニコラス・ウォルターストーフは、登山中の事故のために、25歳の息子を亡くしました。この喪失による痛みを綴った『涙とともに見上げるとき』(いのちのことば社)の中で、ウォルターストーフは次のように述べています。
 「『悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる』〔マタイ5:4〕。......悲しむ人たちとはどんな人なのか。......〔それは、〕神の国では飢えている人は誰もいないと知っていて、飢えている人を見るたびに痛みを感じる人たちである。......神の国では尊厳を欠いた人は誰もいないと知っていて、尊厳を欠いた扱いをされる人を見るたびに痛みを感じる人たちである。神の平和の国では死も涙もないと知っていて、死のために涙を流している人を見るたびに痛みを感じる人たちである。つまり、悲しむ人たちとは、痛みを感じつつ幻〔神の平和の国〕を見る人なのである。
 そのような人たちをイエスは祝福する。喝采し、称賛し、敬意を示す。そしてその人たちに約束する。その日-その日が実現していないことに彼らは痛みを感じているのだが-がやがて来ると。そして慰められるであろう、と」(101-103頁)。
 キリストは、ヨハネ10:27-28において、こう言われています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と。
 言うまでもなく、誰がキリストの羊であり、誰がそうでないかが、最初から決まっているわけではありません。キリストの声を聞かないことにおいて、キリストの羊でないことが明らかになるのです。だからキリストは、十字架の死の直前に、こう言われたのです。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と。
 ナーウェンによれば、キリストは、すべての人間の苦しみを御自分の身に負い、それを天の神への、思いやる愛という贈り物にされたのです。他者の苦しみを思いやることが、キリストの声に聞き従う道なのではないでしょうか。
 ウォルターストーフは次のように述べています。「イエスはこう語る。この世の傷に心を開きなさい。人間の悲しみを悲しみなさい。人間の涙に泣きなさい。人間の傷に傷つきなさい。人間の苦しみを苦しみなさい。しかし、平和の日〔慰められる日〕がやがて来るという喜びをいだいてそうしなさい」(同書103頁)と。